広報誌
Vol.23 2015年9月発行
釜本さんが憧れだった
— 早川さんがトレーナーになろうと思ったきっかけは何だったのでしょうか。
地元日野市でサッカーを小中高とやっていて、漠然と「サッカーに携わることがしたいな」と思っていました。だから、どうしてもトレーナーになりたかったというわけじゃなかった。それで、十分な下調べもせずにトレーナーの勉強ができそうな学校に入ったのですが、ちょっとイメージしているものとは違ったんです。
— どのように違ったのでしょうか。
かなり医学的な内容が多くて、これはスポーツの現場で活かせるのかなと。実際に、社会人のサッカーチームに行って、「トレーナーの勉強をしています」と言うと、選手からは「マッサージをしてほしい」と頼まれるんです。でも、学校ではマッサージを習っていなかったんですね。当時のトレーナーは鍼灸マッサージの資格を持っている方がほとんどだったので、卒業後に資格をとれる学校に入り直しました。この学校に通いながら、トレーナーの派遣をしている会社に所属して、いろいろな現場に行っていました。
— サッカーの仕事を始めたのは、いつからだったのですか。
1989年に日本女子代表チームのトレーナーとして働いたのが初めてのサッカーの仕事でした。実は、これはたまたまなんです。サッカーをプレーしに行ったら、そこで当時の日本女子代表監督の鈴木良平さんと知り合って、トレーナーがいなかったので帯同させてもらえることになったんです。当時の女子代表は日本サッカー協会ではなく、日本女子サッカー連盟が管轄していて、環境的にも今とは大きく違いました。
— 1993年にJリーグが開幕しました。早川さんはガンバ大阪のトレーナーに就任されます。
私がサッカーをしていたときの憧れの存在が、ガンバ大阪の監督だった釜本邦茂さんでした。そんな人と一緒に働けるということで、運命的なものを感じましたね。1996年からはジェフ・ユナイテッド市原(現ジェフ・ユナイテッド千葉)で3年間働きました。Jクラブで働いていた6年というのは、のちに日本代表でトレーナーをするうえでも役に立ちましたね。
— そして、1999年から日本代表チームのトレーナーに就任されます。
1998年のFIFAワールドカップ・フランス大会終了後に、日本代表のトレーナーを務めていた方が退任されました。日本サッカー協会が後任を探していたときに声をかけていただいたんです。私自身、ワールドカップへの特別な気持ちがありましたし、いつかは日本代表に関わってみたいと思っていたので、うれしかったですね。
監督によって仕事のやり方は違う
— 早川さんは、これまでフィリップ・トルシエさん、ジーコさん、イビチャ・オシムさん、岡田武史さん、アルベルト・ザッケローニさん、ハビエル・アギーレさん、現在のヴァイッド・ハリルホジッチ監督と、7人の監督の下で働かれてきました。監督によって、仕事のやり方は変わってくるのでしょうか。
はい、本当に"7人7色"といった感じです。コンディション管理から、ウォーミングアップ、怪我をした選手のケアまでトレーナーの仕事という監督もいれば、そこまで求めない監督もいます。もっと細かいことを言えば、メディカルルームはどんなレイアウトにするのか、食事会場の座り方はどう決めるのかまで、各監督の色が出ます。新しい監督がどんなことを求めているのかを汲み取りながら、仕事のやり方を変えていかなくてはいけません。ただ、その中でも自分のポリシーをしっかりと持つことが大事です。
— 早川さんのポリシーとはどのようなものでしょうか?
メディカルルームにやってくる選手というのは、怪我であったり、疲労であったりを抱えています。もちろん、何か起こったときに対処するだけでなく、何かが起きないようにするのもトレーナーの仕事だと思っています。例えば、疲労回復を早くするためにできることや、日常生活の食事の面など、こちらからアプローチできることはたくさんある。それによって怪我を防いだり、疲れがとれれば、チームにとってプラスになります。もちろん監督の方針にもよりますが、できるだけ自分から積極的に選手に関わっていくようにしています。性格的にもメディカルルームでじっと待っているのは好きではないので(笑)。ただ、その一方で選手との距離感に関しては近くなり過ぎないように気をつけています。プライベートでも付き合って、何でも相談してもらえる関係になるという方もいますが、私の場合はどうしても感情が入ってしまう。トレーナーというのは、時には選手にとって不利な進言を監督にしなければいけないことがあります。でも、選手と仲良くなっていると、フラットに見たり意見を言ったりするのが難しくなるんじゃないかというのが私の考えです。
— これまで仕事をしてきた中で、忘れられないエピソードはありますか?
たくさんあるのですが……、一つ挙げるとすれば、2006年のFIFAワールドカップ・ドイツ大会ですね。右サイドバックのレギュラーだった加地亮選手が大会前の親善試合で相手のタックルを受けて負傷してしまい、本大会でプレーできるかどうか微妙な状況になってしまいました。加地選手は強い気持ちを持って、復帰するために取り組んでくれました。ワールドカップでは1試合目の24時間前までに選手登録の入れ替えができるのですが、2日前にジーコ監督を始め、全スタッフが集まって加地選手の状態をテストすることになりました。みんなが見守る中で加地選手がダッシュやジャンプなどをこなして、終わった後にジーコ監督が「これなら大丈夫だ」と。そこまでの頑張りを見ていたので、本当にうれしかったことを覚えています。
トレーナーとして最も苦労すること
— 代表チームとクラブではトレーナーの仕事に違いはありますか?
よく、「代表活動がないときは何をしているんですか?」と聞かれるのですが、やることはいろいろあります。トレーニングキャンプの準備をすることもそうですし、クラブとのコミュニケーションをとることも重要な作業です。選手というのは普段はクラブに所属していますから、クラブではクラブのやり方に沿ってトレーニングをしています。ですが、代表チームには代表チームのやり方があります。例えば、ある選手が怪我をしたときに、どんな治療をして、どんなサポートをしていくのか。もちろん、クラブのやり方を尊重するのですが、クラブのトレーナーやドクターの方などと密にコミュニケーションをとりながら、選手の情報を把握しておかなければいけません。
— クラブと代表での方針の違いというのは、どんなものがあるのでしょうか。
それこそ、練習後に筋トレをやっていいかどうかも監督によって違います。選手の自主性にある程度任せるというタイプの監督もいれば、練習以外の時間でトレーニングすることを好まない監督もいます。ただ「クラブで筋トレをやっているからやらせてほしい」という選手もいます。そういう相談を受けたときは、監督と折衝をすることになります。大事なのは、選手の考えを一方的に受け入れるだけでなく、監督の考えや、チームの方針を説明して、しっかりと納得してもらうこと。サッカーは人間がやるスポーツですから、コミュニケーションをしっかりとって、お互いを尊重し合える関係を作ることが、とても重要になってきます。
— 代表選手が怪我をした場合のサポートは基本的にはクラブに任せるということでしょうか。
ヴァイッド・ハリルホジッチ監督が率いる日本代表の
コンディショニングコーチを務める
(写真は東アジアカップのもの)
それはケースバイケースです。例えば、海外クラブに所属している選手の場合、外国人のドクターやトレーナーに細かいところまで相談するのが難しいという悩みがあります。クラブ、選手から正式に依頼を受けた場合は、代表チームのドクターやトレーナーが治療やリハビリ、コンディショントレーニングをサポートすることもあります。昨年のFIFAワールドカップ・ブラジル大会の前に怪我をしていた長谷部誠選手や内田篤人選手の場合はそのようなケースです。
— 早川さんは2002年の日韓大会から2014年のブラジル大会まで4大会のワールドカップを経験されています。
自分でもこんなに長く働けるなんて思っていませんでした。私を含めて日本人のスタッフが知識や経験を受け継ぎ、生かしていくことは大事な役目だと思っています。
— 最後に、東京都でサッカーをプレーしているみなさんに向けて、メッセージをお願いします。
この仕事をしていて感じるのは、トレーナーをやるのであればサッカー経験があったほうが良いのではないかということです。選手の悩みだったり、感覚に対してイメージしやすい。今、サッカーを頑張っている選手は、たとえプロになれなかったとしても、その経験を他のやり方で活かすことができるということを伝えたいです。
PROFILE
何か起こったときに対処するだけでなく、
何かが起きないようにするのもトレーナーの
仕事だと思っています。
早川 直樹 はやかわ・なおき
1963年3月9日、東京都日野市出身。東京都立南多摩高校卒業後、メディカルトレーナー専門学校と東京衛生学園専門学校に進む。日本女子代表チームトレーナー、東日本JR古河サッカークラブ(当時)トレーナー、ガンバ大阪トレーナー、ジェフ・ユナイテッド市原(当時)アスレティックトレーナーを経て、1999年より日本代表のアスレティックトレーナーとして働く。2010年より日本代表コンディショニングコーチ。公益財団法人日本体育協会公認アスレティックトレーナー、JFA公認サッカーB級コーチライセンス。