巻頭特別企画

日テレ・ベレーザ / なでしこジャパン
荒川恵理子
世界へ羽ばたくボンバーヘッド







ピッチでの躍動感溢れるダイナミックなプレーと、一際目立つヘアースタイルが特徴的な荒川恵理子。 「野性的」とも称される彼女のプレースタイルはどのようにして育まれたのか。

 


ラーメン屋の前でボールを蹴っていた

――荒川選手がボールを蹴り始めたきっかけは?
荒川 私は3人きょうだいの末っ子なのですが、10歳上の兄と、5歳上の兄がいて、2番目の兄とよく遊んでもらっていたんです。兄がサッカーをしていたこともあって、私も幼稚園の年長になった頃にボールを蹴り始めました。確か5、6歳ぐらいだったと思います。自分の実家はラーメン屋なんですけど、お店の前でボールを蹴っていたのを覚えていますね。リフティングをしたり、塀に向かってボールを蹴ったり、商店街を歩いている人をドリブルでかわしたりしていました(笑)。
――かなり行動的な女の子だったんですね。
荒川 そうですね。家でテレビゲームをして遊ぶよりも、外で走り回って遊んでいるほうが好きなタイプ。友だちも女の子より男の子のほうが全然多かったですし。
――お兄さんにサッカーを教わったんですか?
荒川 こういう風にやったほうがいいというように教わった感じではないですね。ただ、リフティングをよくやっていたので、見よう見まねでやったりしていました。
――サッカーのどんなところに面白さを感じたのでしょう。
荒川 とにかくボールを蹴ることが単純に気持ち良かったんですね。バシッと蹴れたときはすごく嬉しくて。それから、ちょっとマニアックですけど、お兄ちゃんがボールを蹴る音や、靴が地面をこすれる音が大好きだったんです。すごく心地よく私の耳に響いて。
――本格的にサッカーを始めたのはいつ頃ですか?
荒川 小学校2年生のときに豊玉スポーツ少年団(現中村スポーツ少年団)に入団したんです。ここは私が通っていた豊玉小と中村小の合同チーム。女の子はほとんどいませんでしたね。4つ上に2人いたぐらいでした。男の子の中でずっとプレーをしていました。
――男の子が中心のチームでも、荒川選手は目立った存在だったのでしょうか。
荒川 体自体はすごく小さくて細かったんですけど、足はチームでいちばん早かったです。6年生になったときには、女の子でしたがキャプテンになりました。練習開始前後の号令ぐらいしかすることはありませんでしたが(笑)。ただ、実をいうと小学校の頃はそこまで熱心にサッカーをしていたわけではなかったんですよ。野球好きの友だちが多かったので、クラブに行くよりも放課後に野球をしたりしていて、遅れて練習に行ったりしていました。サッカーは好きだったんですけど、その頃は友だちと遊ぶほうが楽しかったんですね。




――中学生になるときに、読売ベレーザ(現日テレ・ベレーザ)の下部組織であるメニーナのセレクションに合格します。当時からメニーナは東京都や神奈川県からサッカーの上手な女の子が集まってくるチームでしたが、荒川選手にとっても憧れの存在だったのでしょうか?
荒川 実は全然知らなかったんです。女子チームがどれぐらいあって、どこが強いとかは、全くといいほど知らなくて。それでも、中学校のサッカー部に女子は入れなかったので、父から「どこか女子チームに入るか」と聞かれたときに、もっとちゃんとサッカーをしたいなと思って、父や知り合いにセレクションを受けられるチームを探してもらったんです。家から近くて通いやすいチームもあったんですけど、ベレーザが強いと聞いて、家からは遠いけどそこに行きたい、と。
――セレクションはどれぐらいの倍率だったのでしょうか?
荒川 100人以上受けた中で合格者は7人ぐらいだったと思います。
――実際にメニーナに入ってみてどうでしたか?
荒川 今まではずっと男の子と一緒にサッカーをやってきたんですけど、私と同じようにサッカーが大好きな女の子がたくさんいた。その頃は毎日練習に行くのが楽しみで仕方なかったですね。土曜日って学校が早く終わるじゃないですか? そういうときは練習開始時間のずっと前からヴェルディグラウンドに来ていたぐらいでした。みんなうまいしレベルが高い。サッカーがどんどん好きになっていきましたね。




新しい自分を発見した
2000年富山国体でのプレー

――1997年、高校3年生のときにベレーザに昇格しました。
荒川 ベレーザに上がって1、2年目は全然試合に出られなくて、自分自身もかなり悩んでいたんです。自分の殻を打ち破る一つのきっかけになったのが、00年に東京都国体選抜の一員として出場した富山国体でした。このときはベレーザの単独チームではなくて、いろいろなチームから集められた中で、私は左サイドバックのポジションでプレーしたんです。それまでは貧血気味だったこともあって、体力に自信がなくて、すぐ疲れてしまっていたんです。サイドバックってすごい運動量が求められるじゃないですか。自分にできるかな……とかなり不安があったんですけど、この大会ではかなり体が動いたんです。新しい自分を発見したというか、自分が変われたような感じがして。決勝で敗れてしまいましたが、ここから自信を持ってプレーできるようになりました。
――東京都国体選抜としては、05年の岡山国体に出場して、荒川選手が決勝でゴールを決めて日本一になっています。
荒川 決勝でゴールを決めることができましたし、優勝もしたんですが、あまり良い思い出はありません(苦笑)。松田岳夫監督(日テレ・ベレーザ監督)に怒られたことばかり覚えています。
――ベレーザやなでしこジャパンで戦ってきた中で、荒川さんにとって思い出深い場所はありますか?
荒川 国立競技場と西が丘サッカー場です。国立競技場は「聖地」といわれていますし、アテネオリンピック出場権獲得を決めた北朝鮮戦というすごく思い出深い試合をしたところなので。たくさんのお客さんの前でやって勝てたのはすごい好きな場所という感じです。西が丘サッカー場はピッチと観客席がすごく近いので雰囲気が好きです。それから、西が丘は02年の全日本女子選手権で「右スネ開放骨折」という大ケガをした場所でもあるんです。そのケガを克服して、今サッカーができていることはとても嬉しく思っています。
――8月には北京オリンピックが行われます。荒川選手はなでしこジャパンのメンバーにも選ばれましたが、この大会にかける気持ちを聞かせて下さい。
荒川 ずっと一緒に戦ってきたメンバーでも入れなかった人がいますし、そういう人たちの分までしっかりとやりたい。自分としてもチームとしても力を出し切りたいです。4年前のアテネオリンピックでは準々決勝で敗れたので、アテネよりも上を目指したいです。
――最後に東京でサッカーをプレーしているみなさんへメッセージをお願いします。
荒川 そうですね。何でもいいので、一つ、こだわりを持ってサッカーを楽しんで下さい。
――ありがとうございました。



Profile
荒川恵理子(あらかわ・えりこ)
1979年10月30日、東京都練馬区生まれ。 5歳でサッカーを始める。小学校2年生で豊玉スポーツ少年団に入団。 読売メニーナのセレクションに合格して、高校3年生でトップチーム・読売ベレーザに昇格。 00年5月に日本代表に初召集。 04年のアテネオリンピックではスウェーデン戦で1得点。 今年8月の北京オリンピック代表選手に選ばれた。