サッカーが楽しくてたまらなかった
――李選手は在日コリアンの両親の下に、西東京市(旧田無市)で生まれました。
李 そうです。僕のお父さんがずっと西東京市に住んでいて。
――お父さんがサッカー選手だったとか。
李 日本の全日空の前身の横浜トライスターSCで2、3年プレーしていました。でも、僕はプレーも見たことないですし、話で聞いたことがあるだけですね。
――サッカーを始めたのはお父さんの影響もあって?
李 いつの間にかやらされていた、という感じですね。だけど、それ以外にもいろんなスポーツをやっていて。サッカー、柔道、空手、体操、それからお絵かき教室、書道。いろいろなものをやって、その中で見込みがあるやつをお父さんとお母さんが絞っていったらサッカーになったという(笑)。
――李選手自身はその中でどのスポーツに興味があったんでしょう?
李 やっぱりサッカーでしたね。
――他のスポーツで得意だったものはありますか?
李 柔道も好きでしたし、相撲もよくやっていました。「わんぱく相撲」の地域大会で優勝したこともあります。ただ、都大会がある日はサッカーと重なっていたので、サッカーに行きました。
――李選手が4歳のときにサッカーを始めた、こみねFCとはどんなクラブだったんでしょうか?
李 幼稚園から小学校高学年までプレーしましたが、本当に普通のチーム。チームの目標も都大会に出ることだったし、仲良くサッカーを楽しむという雰囲気。基礎練習をすることはほとんどなくて、練習は最初から最後までゲーム、ゲーム、ゲーム。”のびのびサッカー“というか、自分の場合はこれがよかったのかなって思います。本当にサッカーが楽しくて楽しくてたまらなかったので。
ただ、小学校から朝鮮学校(東京朝鮮第9初級学校)に通うようになったので、小学校のクラブと、こみねFCを掛け持ちしていました。こみねFCが週2回で、小学校が週5回の練習だったので、こみねFCのほうは試合だけ行っていました。週末はダブルヘッダーということもよくありましたよ。午前中に小学校のチームの試合をして、午後はこみねFCの試合に出るという。
――小さな頃から飛び抜けてうまかったんでしょうか?
李 全然、飛び抜けてなかったです。6年生のときに、東京都朝鮮選抜で、清水市で行われる清水カップという大会に参加したときに、僕らが大敗したチームが決勝で清水FCに何もできずに負けたんです。清水FCの選手を見たときに「こういうやつらがプロに行くんだろうな」と思いましたね。オリンピック代表に入ったときに聞いたら、水野晃樹(セルティック)も、そのチームにいたらしいです。
――ポジションはどこだったんですか?
李 ずっとFWです。プレースタイルも変わってないんじゃないかな。守ることがあまり好きじゃなかった。
――お父さんもFWだったとか?
李 いや、お父さんはDFだったんです。お父さんはずっと守っていたので、息子には攻めさせたかったみたいです(笑)。
――こんな選手になりたいというのはありましたか?
李 誰々というよりも、自分の性格がサッカーに表れていたらいいなと思っています。自分の気持ちを恥ずかしがらずオープンに出すのがポリシーなので。勝ったら喜んで、負けたら悔しがって、という。
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