SPECIAL INTERVIEW

柏レイソル/U-23日本代表
李 忠成
大きな壁を乗り越えて







Jリーグのみならず北京オリンピックでの活躍も期待される柏レイソルの李忠成。 2007年2月に日本国籍を取得した李は、東京都西東京市で生まれ育った。 闘争心あふれるプレーでゴールに襲い掛かるストライカーのルーツとは。

 

サッカーが楽しくてたまらなかった

――李選手は在日コリアンの両親の下に、西東京市(旧田無市)で生まれました。
李  そうです。僕のお父さんがずっと西東京市に住んでいて。
――お父さんがサッカー選手だったとか。
李  日本の全日空の前身の横浜トライスターSCで2、3年プレーしていました。でも、僕はプレーも見たことないですし、話で聞いたことがあるだけですね。
――サッカーを始めたのはお父さんの影響もあって?
李  いつの間にかやらされていた、という感じですね。だけど、それ以外にもいろんなスポーツをやっていて。サッカー、柔道、空手、体操、それからお絵かき教室、書道。いろいろなものをやって、その中で見込みがあるやつをお父さんとお母さんが絞っていったらサッカーになったという(笑)。
――李選手自身はその中でどのスポーツに興味があったんでしょう?
李  やっぱりサッカーでしたね。
――他のスポーツで得意だったものはありますか?
李  柔道も好きでしたし、相撲もよくやっていました。「わんぱく相撲」の地域大会で優勝したこともあります。ただ、都大会がある日はサッカーと重なっていたので、サッカーに行きました。
――李選手が4歳のときにサッカーを始めた、こみねFCとはどんなクラブだったんでしょうか?
李  幼稚園から小学校高学年までプレーしましたが、本当に普通のチーム。チームの目標も都大会に出ることだったし、仲良くサッカーを楽しむという雰囲気。基礎練習をすることはほとんどなくて、練習は最初から最後までゲーム、ゲーム、ゲーム。”のびのびサッカー“というか、自分の場合はこれがよかったのかなって思います。本当にサッカーが楽しくて楽しくてたまらなかったので。
 ただ、小学校から朝鮮学校(東京朝鮮第9初級学校)に通うようになったので、小学校のクラブと、こみねFCを掛け持ちしていました。こみねFCが週2回で、小学校が週5回の練習だったので、こみねFCのほうは試合だけ行っていました。週末はダブルヘッダーということもよくありましたよ。午前中に小学校のチームの試合をして、午後はこみねFCの試合に出るという。
――小さな頃から飛び抜けてうまかったんでしょうか?
李  全然、飛び抜けてなかったです。6年生のときに、東京都朝鮮選抜で、清水市で行われる清水カップという大会に参加したときに、僕らが大敗したチームが決勝で清水FCに何もできずに負けたんです。清水FCの選手を見たときに「こういうやつらがプロに行くんだろうな」と思いましたね。オリンピック代表に入ったときに聞いたら、水野晃樹(セルティック)も、そのチームにいたらしいです。
――ポジションはどこだったんですか?
李  ずっとFWです。プレースタイルも変わってないんじゃないかな。守ることがあまり好きじゃなかった。
――お父さんもFWだったとか?
李  いや、お父さんはDFだったんです。お父さんはずっと守っていたので、息子には攻めさせたかったみたいです(笑)。
――こんな選手になりたいというのはありましたか?
李  誰々というよりも、自分の性格がサッカーに表れていたらいいなと思っています。自分の気持ちを恥ずかしがらずオープンに出すのがポリシーなので。勝ったら喜んで、負けたら悔しがって、という。




うまくなったというより うまくさせてもらった

――中学校からは横河武蔵野ジュニアユースでプレーしますが、そのきっかけは?
李  実は、小学生のときから中学生にまざってやっていたんです。というのも、僕が小学校5年生のときに、お父さんが力試しにと、1年早くセレクションを受けさせたんです。5次試験まであったのですが、5年生なのに受かってしまった。お父さんは慌てていましたが、6年生ではないということを、正直に横河武蔵野のスタッフにいったら、「大丈夫です。来て下さい」ということになって。
――小学生と中学生では、かなりの体格差があったのでは?
李  横河武蔵野は学年別に分けて練習をしないんです。中3から中1までが一緒に練習する。当然、小学生の僕が中3と当たることもある。でかいし、うまいし、速いしで全然ついていけない。中学生でも170センチ以上の人もいますし、30センチ以上大きい人とやるのはかなりきついですよ。練習場と家が近かったのでお父さんがよく見に来ていて、あまりについていけてない僕を見て、「辞めるか?」といわれたこともあります。でも、「全然平気だよ」って返していましたね。
――いつぐらいからやれると感じれるようになったんでしょうか。
李  僕、中学校の3年間で身長が14センチ、13センチ、13センチと一気に伸びたんです。中学校卒業のときには178センチぐらいになりました。体が大きくなるにつれてプレーできるようになっていきました。
 だから、自分がうまくなったというよりも、周りにうまくならせてもらったという感じです。小6の頃から中3の練習環境で揉まれて、それが当たり前のレベルになっているから、それに追いつかなければという感じでやってこれた。
――高校からはFC東京の下部組織、FC東京U-18に入りました。
李  このときも中3のうちから練習に参加したんですけど、いちばん上の学年には馬場君(優太/ジェフ千葉)、尾亦君(弘友希/セレッソ大阪)がいて、みんなうまくて、ここでもまたついていけなかった。中学校までは本能的にやっていたので、ボールを持ったらドリブルばっかりしていて、パスはほとんどしなかったんです。でも、ドリブルだけでは通用しなくなってくる。そこでパスを覚えましたね。プレースタイルの幅が広がったのでよかったです。
――Jリーグクラブの下部組織ということで、プロ選手というのが現実的な目標としてあったと思いますが。
李  プロになるためには、とにかく練習あるのみだと思っていました。練習してプロになれなかったら、しょうがないなって。とりあえず悔いが残らないように練習はしまくっていました。通常の練習が終わった後も、シュート練習や1対1など、誰よりも遅くまで自主練していました。でも、プロになるためというよりも、ただ単にサッカーが好きだったから、サッカーがしたかったからやっていたという感じですね。
――3年生のときには東京都選抜の少年男子の一員として、国体にも出場しています。
李  僕、このとき絶好調だったんですよ。カジ(梶山陽平/FC東京)とかと一緒に出たんですけど、たぶん3試合で6、7点取ったんじゃないかな。ベスト8でアオ(青山敏弘/サンフレッチェ広島)のいる岡山県選抜に負けてしまったけど、自分自身としてはいい思い出があります。実はこのときのプレーを柏レイソルの関係者が見ていて、その後の移籍につながってくるんです。




壁に当たったときはひたすら練習する

――そして、FC東京のトップチームに昇格します。ここで念願のプロになったわけですが。
李  プロになるまでは苦労を感じたことはなかったんです。本当に全くといっていいほど。電車でユースの練習場に行くのが1時間ちょっとかかったけど、それも苦じゃなかったし。本当にサッカーが楽しくて、試合にもコンスタントに出れて。常に上のレベルの試合にも出られていたし。スムーズにプロになれたという感じだったんですけど……。
 きつかったのはトップに上がってから。自分のプレーが全然できなくて、自分が全く出せない。僕はサッカーで生きてきた人間なので、サッカーがダメだと私生活にも影響が及んでしまうんです。かなり落ち込み気味になって、1年目の途中頃からは「自分のサッカー人生はこれで終わるんだろうな」と思っていました。
――自分を取り戻すきっかけになったのは?
李  転機になったのがU-19の韓国代表に選ばれたこと。あれがなかったらたぶん自分は終わっていたと思う。Kリーグにバリバリ出ている選手もいたし、その中である程度プレーできたのが自信になった。最終的には落ちてしまったんですけど、帰ってからはFC東京でも結構できるようになった。
――それでも、1年目終了後にFC東京から柏レイソルへ移籍することになります。
李  サテライトでは誰よりも点を取っていたんだけど、使ってもらえなかった。2年目の契約更改で更新提示を受けたんですが、このままでは出られないと思って移籍したいと伝えました。柏レイソルの関係者が、たまたま僕のサテライトの試合と、高3のときの国体の試合を見ていたのが決め手になって、「ウチに来ないか」と声をかけてくれたんです。
――その後は柏レイソルでコンスタントにゴールを重ねました。
李  いちばん大きかったのは石さん(石崎信弘監督)が僕を辛抱強く使ってくれたこと。石さんの期待に応えようと一生懸命プレーしたことが結果につながったと思います。 
――07年2月には日本国籍を取得。北京オリンピックを目指す日本代表にも選ばれました。
李  日本で生まれ育った僕は日本が大好きです。子供のころから日本代表も韓国代表も同じように応援してきました。ずっと日本でプレーするうちに、日本人になりたいという気持ちが強くなったので、自然な気持ちで決めましたね。
――さて、08年8月には北京オリンピックがあります。この大会への意気込みをお願いします。
李  サッカーのオリンピックは人生に1回しかないチャンス。それをモノにしたい。予選まで出て本大会に出られないのは悲し過ぎますから。世界大会なので自分が世界でどれだけプレーできるのかは楽しみですね。
――最後に、様々な壁を乗り越えてきた李選手からサッカーをしている子どもたちにメッセージを。
李  壁に当たったときはひたすら練習するしかないです。僕、サッカーの神様はいると思っているんで。メルヘンチックですけど(笑)。自分に悔いが残らないように練習しまくる。結果が出た後で「あれをしておけばよかった」なんて気持ちが起きないように練習しまくって、それで結果がダメだったら、自分でも納得がいくじゃないですか。
 だから、ここまである程度順調に来れていますけど、もしダメでも全然悔いはなかったと思います。僕にはサッカーでこれだけがんばったという強みがあるので、それは違うところ、一般企業で働くとしても発揮できるはず。今でもその考え方は変わっていません。これからも悔いが残らないように、練習を積み重ねていくだけです。



Profile
李忠成(り・ただなり)
1985年12月19日、東京都西東京市生まれ。 4歳でこみね幼稚園に入園し、こみねFCでサッカーを始める。 04年にFC東京U-18からトップ昇格。 出場機会を求めて05年、柏レイソルへ移籍。 その後はコンスタントに活躍を見せる。 07年2月に日本国籍を取得すると、すぐに北京オリンピックを目指す日本代表入り。 出場権獲得に大きく貢献した。本大会での活躍が期待される。