巻頭特別企画

川崎フロンターレ
中村憲剛
西が丘が憧れだった
2007年、日本サッカーで最も期待される選手の1人が中村憲剛だ。
昨年、川崎フロンターレの快進撃の立役者となり、10月にはイビチャ・オシム監督の下で日本代表デビュー。
アジアカップ予選のインド戦で決めた鮮烈なミドルシュートは記憶に新しい。
プロになるまで一貫して東京でプレーしてきた彼のバックボーンにあるものとは――。
 

365日中360日サッカー

――中村選手がサッカーを始めた府ロク少年団はどういうチームなのですか。
中村 府中第六小学校のグラウンドで活動しているクラブです。僕が始めたのは小学校1年生の時。僕の小学校にはサッカー少年団がなかったので、住んでいる小金井市から自転車で20分ぐらいかけて通ってました。府六小の子もいるんですけど、府中市の近辺から集まってきている感じで、僕の時は15、6人ぐらいいました。
――府ロクは澤穂希選手(日テレ・ベレーザ/日本女子代表)など名選手を輩出していますが、何か特別な練習法があるのでしょうか。
中村 どうだろう? 僕が行く前から府ロクは有名だったから、普通にみんな上手かったですし。特別なことをするというよりは、基礎練習が多かったかな。
――1週間のうち、どれぐらいサッカーをしていたんでしょう?
中村 府ロクは週6回の練習でしたけど、それ以外の日は自分の小学校で友達と集まってボールを蹴ったりしていました。だから、毎日。小学生の時は本当にサッカー漬けだったと思います。大げさかもしれないけど、365日中360日はサッカーをしていたと思う。土日は毎週試合でしたし、1日5試合なんていうこともありましたから。
――1日5試合!
中村 そう(笑)。大会のトーナメントで負けたら、他の負けたチームと交流試合をしたりして。とにかくサッカーをするのが楽しくて楽しくてしょうがなかった。当時はそういう意識はありませんでしたけど、小学校は一番上手くなる世代だから、あの頃が今に生きているのかな、とは思います。
――それ以外に府ロクでの思い出を教えてもらえますか。
中村 府ロクはサッカーで遠征に行った時は対戦相手の選手の家にホームステイするんです。2人1組ぐらいになって。逆に遠征してきたチームの選手を僕の家に泊めたり。サッカーという共通の話題があるから気まずいとかはないし、僕は人見知りをしない性格だったので。ホームステイでは色々なところに行きましたね。富山、群馬……。ほとんど宿舎に泊まった記憶はありません。
――1人の時は?
中村 そういう時はリフティング。6年生で1000回できるようになりました。自分だけだと何回かわからなくなるから父親に数えてもらって。30分ぐらいかかったのかな。
――身長が低かったそうですが。
中村 小学校の卒業時点で136cm。ものすごい小さかったですよ。「前へ習え」でも前から2番目でしたから。大きくなり始めたのは高校生ぐらい。
――当時の選抜歴などは。
中村 小学校6年生の時に東京都選抜になったのが、プロになるまでの自分のピークです(笑)。ポジションは今よりも前で、よりFWに近いところ。本当に小学校の時が人生で一番上手かったかもしれない。思ったとおりに体が動くし、なんでもできちゃうみたいな感じだったから。小さくてすばしっこかったから、スルスルスルッとドリブルでかわすようなプレーをしていて。今とは真逆で超自己中(笑)。小学生の時はあんまりパスを出すタイプじゃなかったんです。


また違うサッカーの楽しみ方

――中学校時代については。
中村 う〜ん。どちらかというと淡々と3年間が過ぎたという感じです。学校自体もサッカーが強かったわけではないので。
――府ロクを卒業する時に、例えばJリーグのクラブユースに行こうとは思いませんでしたか?
中村 当時からあったんでしょうけど、自分の進路には全然なくて。普通に中学校に行って普通に部活に入って、という感じでした。今だったら、どうしてるかなあ……。たぶんJリーグのジュニアユースのセレクションとかを受けていたと思います。
――高校は久留米に進学しますが、その経緯は。
中村 國學院久我山が第一志望だったんですけど落ちて。第2希望の久留米を受けて受かったんです。どちらもサッカーが強かったですし。
――当時は山口隆文監督(前日本サッカー協会ナショナルコーチングスタッフ、現FC東京U―15むさし監督)が久留米にいました。
中村 高校ではちゃんとサッカーを教わったというか。小学校の時は自分のやりたいようにやってたけど、それが段々とできなくなってきて、高校では考えながらやることを教わった。山口先生を通して当時の日本サッカー協会の最新の指導要綱がダイレクトにウチに来ていたので。今でも大事だとされるプルアウェイとかボディシェイプをその頃からやってました。
――府ロクでやっていたサッカーとはまた違う?
中村 また違うサッカーの楽しみ方。それまでは、そこまで考えていなかったから。毎日新しいことを教わって楽しかったです。
――高校時代のポジションは。
中村 基本的には中盤だけ。足も速くなかったし、体も弱いし。だけど、ボールを蹴るのと止めるのには自信があった。サイドを駆け上がったりもできないし……そうすると消去法で中盤になる(笑)。
――憧れていた選手はいますか。「こういう選手になりたい」というような。
中村 Jリーグが開幕したのが中学生ぐらいでその時はラモス(瑠偉・現東京ヴェルディ1969監督)さんが好きでしたね。試合の時はとにかく目立つし、気持ちが入っていたから。
――自分のプレースタイルと重ね合わせたり?
中村 そんなことはなかったんですけどね。
――だけど、「良くボールに触る」というところは似ている。
中村 うん。触りたがり。使われるよりは、使いたいタイプです。
――高校時代の最高成績は。
中村 自分が出場しての最高は高校選手権の都大会ベスト4ですね。西が丘(サッカー場)で帝京に負けて。1年生の田中達也(浦和レッズ)が途中から出てきて、引っ掻き回されたのを覚えています。
――高校生にとって西が丘でサッカーをするというのは特別なものがある?
中村 高校生の時は西が丘が「聖地」でしたから、あそこでやりたいなって思ってましたね。だけど、大学に行ったらあっさりやれたので調子が狂いましたけど(笑)。




ちょっとずつの積み重ねが自信に

――大学はサッカー推薦だったんですか?
中村 そうです。だけど、大学に行こうと思ったのが3年生の高校選手権の時期だったので、山口先生からは「バカヤロウ」って言われたんですけど(笑)。最初に中大(中央大学)のテストを受けたらたまたま受かったんです。
――大学では3年生の時に2部に落ちて、4年生時にはキャプテンとして1部に引き上げたそうですが、その1年間を振り返ると。
中村 結構きつかったですね。中大の歴史の中で2部に落ちたのが初めてだったから。とにかく1年で戻るのが至上命題だった。とにかく4年生がまとまらないと話にならないということから始まった。話し合いを何回もして、それに下級生がくっついてきて、練習も監督やコーチがいない時もがんばって。
――プロになったのもタイミングがギリギリだったとか。
中村 大学と似ているんですけど、行きたいと思ったのが4年生の6月ぐらい。スカウトの人は目ぼしい選手には2、3年の頃からマークしていて、練習参加もしているっていう時期です。中大のコーチがフロンターレの関係者と知り合いで、そのツテで練習に参加させてもらえることになって。
――自分はプロでやれるなと思うキッカケはあったんですか。
中村 中大はJリーグのチームと練習試合をすることが多いんです。よくやったのはフロンターレ、FC東京、柏レイソルとか。それで、3年生の終わり頃から、余裕を持ってプレーできるようになってきた。前は寄せられただけで慌ててミスをしてたのがしなくなったりとか。キープしても取られなくなったりとか。ほんのちょっとずつのことなんですけど、積み重ねが自信に変わっていった。しかも、サテライトは年齢的にも変わらないし、自分より下の選手もいるからそれには負けられないというのがあった。Jリーグ側はやりにくかったと思いますけど。逆の立場になった今はわかります(笑)。
――対戦相手の大学生からしてみれば、「中村憲剛からボールを取った」ということになれば自慢できる。
中村 だけどオレ、そういうのあったかも(笑)。そういうのがモチベーションになっていた。
――今回、母校の久留米高校が高校選手権に出場しましたが、1回戦敗退。近年、東京のサッカーが低迷していることについては。
中村 関東はJクラブユースが多い。だからみんな行ってしまうのかなと。私立の強豪もたくさんあるから分散してしまうのかもしれない。だからお正月とかは寂しいですよ。東京のチームがあっさり負けてしまうから。来年は頑張って欲しい。
――東京でサッカーをしている選手にメッセージを。
中村 みんなサッカー好きでやっているだろうし、とにかく自由にやって欲しい。人間は一人ひとり個性があるし、自分が持っている特長もあるはずだから、小さい頃はそれを消してまでチームプレーに徹さないで長所を伸ばして欲しい。「矯正」というのは大きくなってもできるから、自分の武器を持って欲しいというのは感じる。今の子どもたちはみんな上手いけど平均的になっているように感じる。コーチには選手のいいところを伸ばしてやって欲しい。それから、とにかく「サッカーが好きだ」という気持ちだけなくさなければ、いつまでも続けていけると思う。
――もしもプロになっていなかったら、今もサッカーをやっていると思いますか?
中村 どこかで続けていると思います。草サッカーチームとか。働きながらとかでも。それかサッカー関係の仕事をしているかな。どちらにしても自分の人生とサッカーとは切り離せない。
――最後に2007年の抱負を教えて下さい。
中村 とにかくどの試合も全力でやること。日本代表ももちろんありますけど、まずフロンターレでいいプレーをしないと呼ばれないですし。Jリーグ、アジアカップ、ACLとこんなにあることはめったにないので楽しみたいと思っています。


Profile
中村 憲剛 (なかむら・けんご)
1980年10月31日生まれ。東京都小平市生まれ。小学校1年生から府ロク少年団で本格的にサッカーを始める。5年生時には全日本少年サッカー大会でベスト16。東京都選抜にも選ばれた。久留米高校(2007年度より東久留米総合高校)では、高校選手権東京都大会ベスト4。中央大学に進学後は4年生時にキャプテンとして2部リーグから1部リーグに引き上げる。2003年、川崎フロンターレに入団。2年目にJ1昇格すると、4年目の昨季はJ1準優勝の原動力に。昨年10月、イビチャ・オシム監督によって日本代表にも選ばれた。175cm、66kg。