巻頭特別企画

なでしこジャパン日テレ・ベレーザ
澤 穂希
東京と私
   

「世界の澤」を育んだ
府ロクSCのグラウンド

澤穂希。なでしこジャパン、日テレ・ベレーザの背番号10。15歳から世界の第一線で戦い続ける、日本女子サッカー史上最高の選手である。今や「世界の」という枕詞がセットになっている澤の出発点は、小学校時代の府ロクのグラウンドだった-。

   

――サッカーはいつ頃から始めましたか。
 サッカーを始めたのは6、7歳ぐらいです。きっかけは一つ上の兄がやっていたから。サッカー部の練習を母と見に行った時、「妹さんもボール蹴ってみない?」と言われて、たまたま蹴ったボールがゴールに入ったのが嬉しくて(笑)。すぐに「私もサッカーをやりたい!」となりました。
――生まれ育った府中市はサッカーが盛んなことで知られています。
 でも私、5歳から7歳までは親の転勤で大阪に住んでいたので、ボールを蹴り始めたのは大阪なんです。小学2年生で東京に戻って府ロク(※)に入ってから、本格的にサッカーを始めました。
――その頃の府ロクには「女子」のカテゴリーがあったのですか?
 いえ、ありませんでした。ずっと男の子の中でプレーしていました。
――サッカー漬けの小学生時代?
 もう毎日サッカー、サッカーでしたね。練習は週5回あったし、土日は必ず練習試合が入っている。とにかくサッカーをするのが大好きで、楽しくて。そのまま今まで来たような感じなんですけど(笑)。
――その頃の思い出を教えて下さい。
 私たちは遠くの遠征先ではホテルや民宿じゃなくて、「分宿」といって対戦相手の選手の家に泊まるんです。それが他校の友達と仲良くなれるから面白かった。だけど、高学年になるとお互いに意識して気まずくなってくる(笑)。
――中学生からは日本女子サッカーリーグ(L・リーグ)の読売ベレーザ(現日テレ・ベレーザ)でプレーします
 もちろんセレクションを受けたんですけど、小学6年生の頃から練習生として行ってたんです。府ロクの時に、読売ジュニアユースと戦ったことがあって、本当に強かったんです。だから女子も「きっと強いんだろうな」というイメージがありました。でも、ずっと男の子とプレーしてたので、女の子のチームに溶け込むのは難しかったですね。
――当時、中学1年生でしたが、下部組織のメニーナには所属しなかったのですか?
 4月からの1ヶ月間はメニーナでしたが、すぐにベレーザに上がったので実質的には所属していません。1年目は13歳で体格的にも小さかったので思うようにプレーできませんでしたが、2年目に同じポジションの先輩が怪我をしてチャンスをもらったんです。本田さん(美登里・現岡山湯郷Belle監督)が右サイドバックで、その前が私だったんですけど出始めの頃はボールをもらっても前を向けなくて、後ろに返してばっかり(苦笑)。本田さんに「前向け!」って怒られてました。15歳ぐらいからですね、イメージするプレーができるようになってきたのは。
――中学校とL・リーグの両立は大変そうに感じます。
 ベレーザの選手は基本的に社会人なので練習のスタートが夜6時30分からと遅いんです。終わって9時30分、10時に家に帰ったらご飯を食べて、寝て……の繰り返しです。練習は週6回だったので、友達と遊ぶのも練習がオフの月曜日ぐらい。でも、毎日サッカーが楽しいから、中学校に行ってる間も「早く練習に行きたい!」と楽しみで仕方がなかった(笑)。1時間前からグラウンドに行って、1人でボールを蹴ってましたね。

※府ロクサッカークラブ……東京都府中市で活動するジュニアの名門チーム。中村憲剛(川崎フロンターレ)、前田喜史(フットサル日本代表)ら数多くの名選手を輩出している。


スクールで未来のJリーガー、L・リーガーと一緒に
サッカーを楽しむ

「私の原点は府ロクのグラウンドだと思います」

   

府ロクがあったから今の私がいると思う

――澤さんは1999年からアメリカ女子サッカーリーグ(WUSA)で約5年間プレーしましたが、その中で日本との違いはどこにあると感じましたか。
 まず、圧倒的に女子サッカー人口が多い。一つの州の中にたくさんの女子チームがあって、それぞれカテゴリー別に分かれている。プロ選手として行ったんですが、午前はチームの練習をして、午後は自分の体をケアする時間に充てられる。洗濯物を出しておけば、次の日にはロッカーに置いてある。その前からベレーザでもプロ契約はしていましたが、金額面でも環境面でも大きく違います。また、アメリカでは自分たちのチームを知ってもらうために様々なイベントをするんです。例えば新しくショッピングモールができたら、何人かの選手が行ってサイン会、握手会をしてPRをする。日本だとL・リーグの試合がいつあるのかは、自分で調べないとわからないですよね? そういうところは私たちも積極的に取り入れていきたいと思っています。
――2004年アテネ・オリンピックでのなでしこジャパンの奮闘が感動を呼んで、女子サッカーの認知度は大幅にアップしました。長らく最前線で戦い続ける澤さんは、近年の移り変わりをどのように捉えているのでしょう。
 96年のアトランタから女子サッカーはオリンピックの正式種目になりました。だけど、00年のシドニーの出場権を逃してしまったところに、L・リーグでは企業の撤退やチームの解散も重なり、日本の女子サッカーはどん底になりました。私はいい時代も悪い時代も通ってきたので、もしもアテネに行けなかったら本格的に「ヤバイだろう」というのは感じてたんです。そういうプレッシャーを乗り越えてアテネ行きを決めて、それ以降、取り上げてもらうことが増えたのは素直に嬉しいです。
――なでしこジャパンの影響でサッカーをやりたいという女の子も増えているはずです。
 そうですね。実際にヴェルディのスクールでも女の子の参加者は増えています。だからこそ、彼女たちに「澤選手みたいになりたい」、「荒川(恵理子)選手みたいになりたい」という目標にしてもらえるようにこれからも頑張ります。私自身もベレーザに入った頃から、先輩たちのプレーを見て育ちましたから。
――05年、そのベレーザは国体(東京都として)、L・リーグ、全日本選手権の3冠を見事に成し遂げました。女子サッカーにおいて東京は、ダントツの強さを誇っているといえます。
 正直にいうとベレーザで戦う時は、「絶対に優勝できる」という自信があります。1人1人が技術的に上手いですし、日本代表にも数多くの選手が選ばれている。だから、ベレーザでサッカーをするのは本当に面白いんです。それに、チームでも代表でもずっと一緒にやってきたキャプテンの酒井(與恵)とは、「常に上を目指す」というのを意識しています。プレー以外の部分でも酒井の存在は大きい。お互いに刺激しあって、高めあえる選手が、チームにいるのといないのとでは大違いです。
――それでは、澤さんにとってサッカー人生の原点はどこですか?
 やっぱり府ロクじゃないですかね。府ロクでの5年間があったから、今の自分がいるといっても過言ではありません。実際に日本代表に選ばれている選手には、小さい頃男の子の中に女の子が1人でプレーしていた選手が多いんですよ。男の子の方がスピードがあるから、そういう中で揉まれることで成長するんだと思います。
――原点である府ロクのグラウンドには、今でも行くことはあるんですか?
 府ロクのグラウンドは近所にあるので、毎日のように近くを通るんですが、グラウンド自体に行くことはほとんどありませんね。でも、アテネ・オリンピックの前に府ロクで壮行会をしてもらったんです。小学生の時は大きいというイメージがあったグラウンドが、大人になって見てみると小さく感じるので「こんなに小さかったっけ?」とショックを受けました(笑)。
――最後に東京都でサッカーをプレーしているたくさんの選手にメッセージをお願いします。
 私は単純にサッカーが楽しいから、ボールを蹴り続けています。これからも皆さんと一緒にサッカーを楽しんでいきたいと思います。
――どうもありがとうございました。


     Profile      澤 穂希

1978年9月6日生まれ。東京都府中市出身。小学校2年生から府ロクサッカークラブで本格的にサッカーを始める。93年、弱冠13歳にして読売ベレーザでL・リーグにデビュー。15歳で日本代表に選ばれ、99年からはアメリカ・WUSAのアトランタ・ビートでプレー。2004年、日テレ・ベレーザに復帰した。96年、04年オリンピック出場。163cm、57kg。