巻頭特別企画


なでしこジャパン 佐々木則夫監督インタビュー

監督になってわかった古沼先生のすごさ

――佐々木監督は浦和西中学校から帝京高校に進学されましたが、“越境入学”をしようと思ったきっかけは何だったのでしょうか?

佐々木監督 「元々は普通に埼玉の高校に進学しようと思っていたんですね。でも、チームメートの中に進路で帝京を希望しているやつがいたんです。『どうして帝京に行きたいんだ』と聞くと、『帝京のほうが高校選手権に出られる確率が高いから、活躍するなら帝京のほうが良いんだ』と言われて、そうなのかと。当時の埼玉は全国大会に出るチームが毎年入れ替わっていましたからね」

――佐々木監督が入学した年、帝京は全国大会で優勝しました。

佐々木監督 「3年生に現監督の広瀬龍さんなど素晴らしい選手がいて、清水東高校に勝って優勝しましたからね。1年生のときはベンチ入りはしたものの試合に出ることはなかったので、ほとんど雑用係のようなもの。それでもベンチに座って、チームの雰囲気を味わえたのは良い経験でした」

 古沼先生から学んだのは“教え過ぎないこと”の重要さ

――帝京の古沼貞夫監督からはどのような影響を受けましたか?

佐々木監督 「古沼先生は元々陸上出身だったこともあって、戦術的な細かいところよりは、選手の動機づけ、モチベーションを高めることを重要視されていたと思います。こんなこともありました。大会中に古沼先生がふらっと現れて、『旅館の中は暑いから涼しい喫茶店でも行ってこい』と500円をくれたんですね。当時は喫茶店なんて、なかなか行けませんでしたから。ジュースやコーヒーを飲んだり、マンガを読んでリラックスしたり。それがすごくうれしかったのを覚えているので、なでしこジャパンでもときどきやりますね」

――ピッチ上の指導で印象に残っていることはありますか?

佐々木監督 「あまり教え過ぎないことですね。基本的なことを教えるぐらいで、細かいことは言わない。そうすると、自然と選手間で話し合うようになるんですね。サッカーというスポーツはピッチの上であらゆる状況に対応していかなければいけません。それができる環境を作り上げてくれたんだと思います」

――トレーニングも基本練習が中心だったのでしょうか?

佐々木監督 「そうですね。その中で何度も言われたのが『ワンタッチで精度の高いプレーをするのがうまい選手なんだ』ということでした。練習内容も止める・蹴るといったことが常に含まれていました。指導者になってみて、先生のトレーニングの中にはいろいろなものが詰まっていたんだなと感じましたね」

――古沼先生のようにサッカー未経験者であっても指導者になることは可能なのでしょうか。

佐々木監督 「できると思います。ただ、見る目は大事だと思います。細かい技術のところではなく、サッカーの根本的に大事なところができているかどうかを見極める力ですね。古沼先生はそこが優れていました。例えば、試合の苦しい時間でしっかりと走ること。それができていなければ、かなり厳しく言われました」

――佐々木監督に与えた影響はかなりのものなんですね。

佐々木監督 「僕もいろいろな指導者の方に教わったり、話したりしてきましたが、根本にあるのは古沼先生の教えですよ。僕がなでしこジャパンのトレーニングで結構きついことを要求するのも、古沼先生から受けた影響が大きいですね。試合中に『あのぐらいのきついトレーニングをしてきたんだから大丈夫なんだ』と思って、不合理なことにも立ち向かっていける力は、そう簡単には身につかないものなんです」

――3年生のときはインターハイで優勝、高校選手権で3位になりました。

佐々木監督 「僕がキャプテンになった年に千葉の習志野高校に0-6で負けてしまったことがあったんです。古沼先生にも『今年はダメだな』と言われたぐらい(笑)。僕らの学年はレギュラーが少なかったんです。下の代には早稲田和男とかがいて、僕らはいわゆる谷間の世代だった。だから、とにかく話し合ってチームを作っていきました」

――マイナスからのスタートだったわけですね。

佐々木監督 「すごく覚えているのが、3年生チームと1・2年生チームの対抗戦ですね。負けたほうが得点差につき何十周も走らされるという、恐ろしい罰ゲームがあるんです。僕たちの代は弱かったので、1・2年生は勝ったつもりでいたと思いますよ。でも、僕たちは試合前から作戦を練りに練って、見事に勝ったんです。しかも4点差。ありえないことですよ」

――なでしこジャパンがワールドカップでドイツやアメリカを倒した試合を思わせるエピソードですね。

佐々木監督 「あのときの運が、今のなでしこにもつながっているのかもしれません(笑)」

大きな絵を描いてそこに向かっていく

――佐々木監督が男子から女子の指導者に転身されたきっかけを教えて下さい。

佐々木監督 「たまたまS級ライセンスを取得したときの同期が、前なでしこジャパン監督の大橋浩司さんだったんです。大橋さんがコーチを探されているということだったので、声をかけていただいたのがきっかけですね。だけど、本当に自分が女子サッカーの指導者としてプラスになるのかは考えましたね」

――最終的に何が決め手になったんでしょうか。

佐々木監督 「僕はどちらかというと、自分たちよりも強い相手にどうやって勝つかというチームの監督をすることが多かった。NTT関東の監督のときは、ほとんどが社員選手で夜しか練習できない中で、プロ選手もいるチームと戦ってきましたし、大宮ユースでも浦和レッズユースや埼玉県の強豪校に良い選手をとられる中で結果を出してきたので。そうしたら、『女子は他の国は体が大きくて、もっと差がある』と言われて、自分がやる意味があるかもしれないと思って引き受けたんですよ」

――女子選手へのアプローチで佐々木監督が自分自身を変えたところはあるのでしょうか。

佐々木監督 「それはないですね。自分をしっかり出すことを心掛けました。他の人から言われて変えるのは自分じゃないですからね。最初はコーチングで強く言い過ぎたり、ケンカになったこともありましたけど、そうやって変えていくことが大事だと思っていましたから。あとは見下さないこと。女子選手は少なからず男子のサッカーにコンプレックスを持っているものなんです。そこで『自分は男子を教えてたから』なんて偉そうな態度で接したら、本心を伝えなくなってきます」

――佐々木監督はエースの澤穂希選手をトップ下からボランチにコンバートしました。
  エース格の選手のポジションを変えるのは勇気がいることだと思うのですが。

佐々木監督 「先ほども言いましたが、指導者にとって大事なのは見る目なんです。澤選手は攻撃的な要素をみんな評価するけど、それよりもボールを奪うところや、守備のときにバックする速さは他の選手にはないものを持っていた。なでしこを世界で戦えるチームにするには、澤選手がボランチとして、みんなのお手本になってもらう必要があると思ったんです。澤選手としても『どうして?』と思うかもしれないけど、ボランチにすることで、こういう現象が起こるんだというのをちゃんと説明できれば納得してくれる」

――FIFAワールドカップで優勝されてから、ロンドンオリンピックまでチームを高めていく作業は難しくありませんでしたか?

佐々木監督 「それほど難しくありませんでしたね。最初の時点で攻守にアクションするサッカーを目指そうという考えの元にチーム作りをスタートしました。最初の2年間は細かいところも言いましたけど、これからの2年間は自分たちで考えながら、やっていってほしいと伝えたんです。あらかじめ大まかな絵を描いているから、その中で迷ったり立ち止まったりしたとしても、最終的な絵に向かっていける。この2年間ぐらいは私自身はあまり多くは言っていません。チームのミーティングよりも選手たちだけのミーティングのほうが長いくらい。先日、コーチングセミナーでこのことを話したらイタリアのコーチには『考えられない』って言われましたけどね(笑)。でも、『結果は出してるよ』と答えましたけど。

 日テレ・ベレーザが女子サッカーの礎を築いた

――なでしこジャパンの躍進を考えるうえでは、東京の日テレベレーザの力は大きいですか?

佐々木監督 「それは女子サッカー30年の歴史を見れば明らかですよね。ベレーザの門をくぐった選手が本当にたくさんいる。今では女子のクラブチームもできていますが、いち早く女子選手のアスリート化を進めてきたのは、ベレーザでしたから。日本の女子サッカーが強くなったのは、ベレーザがあったからといっても過言ではないですね。僕は足を向けて寝れませんよ(笑)。こういうチームが複数あれば、日本の女子サッカーはもっと強くなっていくと思います」

Profile


佐々木 則夫 (ささき・のりお)

1958年5月24日生まれ。山形県尾花沢市出身。帝京高校サッカー部で3年生時にキャプテンとしてインターハイ優勝、高校選手権ベスト4。明治大学を経て、大宮アルディージャの前身であるNTT関東サッカー部でプレー。33歳で引退後、指導者として大宮のユース監督などを歴任。2006年に日本女子代表のコーチに就任し、2007年より監督を務める。2012年、FIFA女子世界年間最優秀監督賞を受賞。