巻頭特別企画

FIFAワールドカップ レフェリー経験者インタビュー
丸山義行×高田静夫×岡田正義
ワールドカップのピッチを踏んだもう1つの日本代表
サッカーの祭典、ワールドカップへの出場を夢見るのは選手だけではない。
裁く側の人間、レフェリーにとってもワールドカップは4年に1度の大舞台なのである。
レフェリーの「日本代表」として、丸山義行氏は1970年メキシコ大会、高田静夫氏は1986年メキシコ大会、1990年イタリア大会、岡田正義氏は1998年フランス大会に選出されている。
それぞれのワールドカップまでの道のりはさまざまだが、共通点は東京都サッカー協会所属審判員としてキャリアを積み上げたということ。
東京都から世界へと羽ばたいた、3人のレフェリーからのメッセージをお届けする。
   

ウェンブリー・スタジアムという
夢があったからここまで来れた

 1998年フランス大会は日本代表が初出場した大会として、日本サッカーの記録と記憶の両方に深く刻まれている。同大会にはグループリーグ第1戦のイングランド対チュニジアの主審として岡田正義氏も出場を果たしている。ワールドカップのピッチに立った時のことを岡田氏は「目標の場所に立っているという嬉しさと共に、『今までやってきて良かったな』と思ったのを覚えています」と振り返る。
 岡田氏がレフェリーの道を歩み始めたのは東洋大学1年生の夏休み。都立久留米高校時代の恩師・小峯英夫監督から審判員資格の取得を勧められたからだという。その後、テレビのサッカー番組でFAカップ決勝がイングランドのウェ

ンブリー・スタジアムで行われていたのを見て、「8万人の大観衆による大合唱の中でサッカーをしている……ここに行きたい!」と強く思うも、選手としては「あまりうまくなかった」。それならば「審判として行こう」と決意する。憧れのウェンブリー・スタジアムに行くためには国際審判員にならなければいけない。ワールドカップは自然と目標になった。
 当初は選手と審判を両立していたが、大学3年生でサッカー部を退部、21歳からは審判に専念する。77年に4級審判員になった岡田氏は、翌年に3級、80年には2級と順調にステップアップ。国際審判員になったのは1992年。
 国際試合で主審を担当した最初の試合は、94年ワールドカップアメリカ大会アジア予選のバーレーン対韓国。この試合のレフェリーインスペクターを務めるAFC審判委員長ファルク・ブゾー氏の目の前で、納得のいくレフェリングができたことが98年フランス大会へとつながったと岡田氏は感じている。
 だが、岡田氏にも苦い思い出のゲームがある。国際の資格を取得してから3年後のU-20ワールドユース大会(カタール)。オランダ対ホンジュラス戦の主審を担当した岡田氏はホンジュラスに4枚のレッドカードを出した。その後、ホンジュラスの選手が怪我で退場したため、没収試合になってしまったのである。ホンジュラス選手のラフプレーが原因ではあるが、岡田氏は「レフェリーがゲームを組み立てること」の重要性を痛感したという。
 それ以来、岡田氏が心掛けているのは「ボールを蹴る時間を確保すること」、「選手を守ること」。サッカーというスポーツの本質はお互いがゴールを目指してプレーすることであり、決してファウルで潰し合いをすることではない。「だから選手が何を考えているのかを、常に考えながらジャッジしなければいけない」。
 イングランド対チュニジア戦のレフェリングは無難にこなしたものの、残念ながら2試合目の割当は来なかった。だが、レフェリーがベストパフォーマンスを引き出すためにFIFAがワールドカップで提供した環境は忘れられないそうだ。
 2002年からスペシャルレフェリー(SR)第1号として、Jリーグを中心に笛を吹き続けている。岡田氏は将来的にSR、国際審判員を目指す人たちにメッセージを送る。「とにかく目標を見つけて欲しい。自分の目標があればそれに向かっていけるから。1つ1つ達成していけば、いつか目標は叶えられるはずだから」と。

   

選手がプレーに専念してくれるのが
レフェリーにとって一番いいゲーム

 日本人で初めてワールドカップの主審を努めたのが高田静夫氏。1986年メキシコ大会、スペイン対アルジェリア戦は20年後の今も色褪せることはない「偉業」である。高田氏は90年のイタリア大会にも参加し、主審を1試合、副審(当時は線審)を3試合、第4審判(当時は予備審)を3試合と大活躍。レフェリーとしての実力を完全に認められた証拠だといえるだろう。
 86年メキシコ大会のレフェリーに選出された高田氏だが、国際審判員の資格を取得したのはわずか2年前、84年の7月のこと。その年の12月のアジアカップ決勝大会(シンガポール)での的確なレフェリングが評価されたことが、自ら「青天の霹靂」という大抜擢につながった。

このようにレフェリーの世界では1つのゲームが、レフェリーのその後を左右することは良くある。それにしても、高田氏の審判履歴は大抜擢の連続だ。
 高田氏も「理由は詳しくはわかりません。人手が足りなかったのかもしれない。当時はJリーグもなかったですし、今ほど審判という仕事が認知されていませんでしたから」と語る。1級資格を80年12月に取得、その1カ月後に天皇杯決勝戦の第4審判員の割当を受ける。1級から3年半後の国際審判員登録も異例のスピードだという。
 レフェリーにとって大切なことは、高田氏によれば「ワールドカップ、オリンピックという遠い目標を持つことも良いが、とにかく目の前の試合に全力を尽くすことです」。東京教育大学(現筑波大学)卒業後に先輩から「せっかく大学までサッカーをやって来たんだから、それを生かすには審判という道もあるんじゃないか」と勧められて始めた頃から、1つ1つ全力で取り組んできたからこそ、ワールドカップへの道が開けたのだろう。
「両方の選手がプレーに専念してくれる時は、レフェリーにとってもいいゲーム」だと高田氏は思っている。「お客さんは選手のプレーを見に来るわけで、審判に文句を言うところを見に来ているわけではありません。プレーヤーが自分の能力を最大限に発揮できるゲームなら『また見に来よう』と思ってくれるはずですから。そういうゲームをするためには選手の気持ちまで入り込んで判定を下さなければなりません」。
 こんな出来事が海外のゲームであった。攻撃側の選手がDFにファウルで止められそうになるが、ギリギリで持ち応えている。高田氏は選手のゴールへの意志を尊重してファウルで止めずアドバンテージを取る。その選手はマークを振り切ってシュートまで結び付けた。すると戻り際に高田氏は選手から「ありがとう」と声を掛けられた。このように選手と審判の気持ちが通じ合うのは、「審判冥利に尽きる」瞬間だという。
 95年に現役審判員を退き、それ以降はレフェリーインスペクターとして後進の育成に当たっている。高田氏がこれからの審判員を目指す人たちに伝えたいこととは。「審判に関わる知識ばかりを詰め込むのではなく、もう少し幅広い視野を持って色々なものを見た方がいい。世界のサッカー事情、技術、戦術、サッカーの歴史などを知ることでサッカーの心に近づけるのではないでしょうか」。


   

ワールドカップでは「レベルが違いすぎる」と感じました

 丸山義行氏は日本人で最初のワールドカップレフェリーである。日本代表にとってワールドカップが夢のまた夢だった1970年メキシコ大会。丸山氏は副審(当時は線審)として選手に先駆けて初出場を果たしている。
 当時のことを丸山氏はこう振り返る。「私がワールドカップへのチャンスを掴んだのは68年メキシコオリンピックがキッカケです。試合前にデッドマール・クラマーさん(元日本代表コーチ)から、選手のプレーの特徴などを教えてもらうことができたので落ち着いてやれたんです。すると『君は2年後に選ばれるだろう』とFIFAの会長に言われて、実際に呼ばれたというわけです」。

 しかし、このワールドカップで丸山氏は世界との実力差を思い知らされることになる。「担当したのは副審1試合だけだったのですが、それでも『レベルが違いすぎる』というのを感じました」。
 その背景には当時の日本の審判事情がある。現在のような審判員制度ではなく、各チームから派遣された、持ち回りのレフェリーばかりだったのだ。「なりたい」ではなく「やらされている」ではレベルアップを望むのは難しい。だが丸山氏は大学時代に仕方なくやらされていた審判の面白さに気づき、「選手で代表になれなかったのなら、審判で代表になってやろう」と本格的に審判としてのキャリアをスタートさせた。
「審判にはプレーヤーにはないサッカー全体を見られる面白さがある」と丸山氏は語る。「審判の判定1つでスタンドの雰囲気が変わることもある。ゲームの中で非常に重要な役割を担っている。それから、ペレが来日したときは、試合後にペレが我々の控え室に来て『ありがとう』と言ってくれた。我々にとってペレは雲の上の存在です。そういう選手と同じピッチに立つのはなかなかできることはないですから嬉しかったですね」。
 ワールドカップに参加して「日本のサッカーが強くなるには、選手はもちろん審判もどんどん海外へ出て行かなくてはいけない」と痛感させられた。「世界の選手と対等の関係になれないといい審判になれないし、いいゲームはできません」。
 丸山氏が「初出場」した70年メキシコ大会から36年後の2006年、上川徹氏と廣嶋禎数氏が参加したドイツ大会では審判を取り巻く環境は劇的に変化している。丸山氏が「レベルが違いすぎる」と感じさせられたワールドカップで、上川氏、廣嶋氏はグループリーグ2試合、決勝トーナメントでは3位決定戦を担当し、正確なジャッジで世界中から高い評価も得た。日本の審判のレベルは着実に進歩している。
 また、最近ではレフェリーに「なりたい」という志望者が急激に増加している。丸山氏は言う。「我々の時代から比べたら、環境は非常にいい方向に向かっていると思います。審判員制度も整っていますし、審判の勉強を出来るチャンスがたくさんある。だからこそ若い人たちにはチャンスに貪欲になって、頑張ってもらいたい。ワールドカップのような高い目標を目指すことが大切だと思います」。

Profile

丸山義行
(まるやま・よしゆき)

高田静夫
(たかだ・しずお)

岡田正義
(おかだ・まさよし)
1931年10月28日生まれ。栃木県出身。
70年FIFAワールドカップメキシコ大会で日本人で初めてレフェリーとして出場。副審1試合を勤める。Jリーグ発足の93年から2002年まで、規律委員会委員長を務める。
1947年8月5日生まれ。東京都練馬区出身。
86年FIFAワールドカップメキシコ大会にて主審1試合、副審2試合、90年同イタリア大会にて主審1試合、副審3試合、第4審判3試合を務める。96年12月にFIFA審判特別賞を受賞。現在、(財)日本サッカー協会参与。
1958年5月24日生まれ。東京都西東京市出身。
98年FIFAワールドカップフランス大会にて主審1試合、第4審判3試合を務める。現在、スペシャルレフェリー(SR)として活躍中。(社)日本プロサッカーリーグ運営部に所属。